遥香の成長記録

--(1)遥香誕生
--(2)呼吸停止
--(3)ダウン症の宣告
--(4)本を読み漁り
      『子供の城』へ
--(5)でんでん虫の会
--(6)「あゆむ」の
      仲間と共に
--(7)2000年頃
--(8)2001年3月
--(9)2002年の様子
--(10)2003年の遥香
--(11)2004年の遥香
--(12)2005年の遥香


◆第8回世界ダウン症会議Inシンガポールに参加して(工事中!)

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(3)ダウン症の宣告、阪神淡路大震災級の衝撃、悲しみの日々

心配でも親として手を握ってやることもできないいらだたしさの中、時間だけが過ぎていきました。 ようやく次の日になって、遥香の様態も少し落ち着いてきました。

小児科の先生がこのままでは退院させられないので精密検査をしてみるという事になりました。 検査の内容は心臓と血液検査でした。しかし、検査の結果異常は見あたらないとのことでした。

なぜチアノーゼがおこったのかちゃんとわからんと不安なので、 病院の先生から大阪医科大学付属高槻病院(高槻医大)に入院を勧められました。 生まれたてのこんな小さな子どもにと思いながらも、 子どものためやったらと夫婦で相談した結果、高槻医大に入院させることに決めました。

その後の病院の対応は早く、1月の冷たい雨が降る中でしたが、 すぐに救急車を手配していただき、小児科の先生も同乗して頂いて高槻医大に搬送されました。

その時、妻はまだ産婦人科病棟のベットの中でした。普通なら40分ぐらいかかる道のりを遥香を乗せた救急車はわずか10分足らずで到着しました。

遥香は大学病院についてからもチアノーゼを起こしていました。 遥香が病院を替わって一日遅れの1月5日、妻は遥香を産んだ友紘会病院を退院しました。 その日から、親も一日のうち午後3時から30分間しか面会できないという日々が続きました。

妻は毎日母乳を絞り、冷凍した母乳を持って高槻医大に通いました。 遥香は保育器の中で裸のまま点滴をされ、手や足には心電図がつけられていました。 でも肌の色も随分とよくなってだんだん元気そうになりました。

1週間目ぐらいで、やっと保育器から出してミルクを飲ませることが出来たときはうれしくて妻の涙が止まりませんでした。

震災の日、家に帰っていたらベッドをおくはずのところの本棚が倒れて、 大変なことになっていたのですが、病院にいたので何事もなく助かりました。

1月25日、高槻医大の先生から私に電話があって、血液検査の結果の話がありました。 そのとき先生から遥香がダウン症であることを告げられました。

そして、妻に、その事を話しました。
私「もしかしたらダウン症かもしれへんそうや」

妻「ダウン症てなに」

私「染色体の異常の病気や」

妻「染色体の異常てどうなるの」

私「発達が遅れて知恵遅れになるそうや」。

その時、時間が止まりました。しばらくどちらもことばが続きませんでした。 しばらくして家に何冊か家庭の医学書があったので私と妻は早速ダウン症について調べました。

染色体の異常、精神発達遅滞、知恵遅れ、蒙古症、読むにつれてふたりは大変なショックを受けました。 しかし、成長すると人に愛される性格であると書かれてたので、成長できる病気なんだと少しは心が落ち着きました。

私「そやから二人で大事に育てたろ」

妻「うん」・・・・・。

遥香は生まれて私たち夫婦にいっぱい夢と希望を与えてくれたのに、 遥香にこんなにしんどい事を背負わせてしまったことが大変かなしくて私たちは涙が止まりませんでした。

翌日病院から二人で結果を聞きにくるようにといわれて、まだ半分は信じられない思いと、 先生からなにを聞かされるのか不安な気持ちで私たちは病院に行きました。

病院につくまで私たち夫婦は黙ったまま、車のラジオから流れる音や車外の音は何も耳には聞こえませんでした。 病院について、そこで先生から遥香の状況についての詳しいことを聞くことが出来ました。 先生は心臓の図を持ってきて、遥香の症状を詳しく説明してくれました。

病名は21トリソミー(21番目の染色体が1本多い病気)と言われる種類のダウン症。 心臓は奇形で動脈管開存と心房中隔欠損の2カ所心臓に穴が開いていると言うことでした。

私たち夫婦は、ふるえる気持ちをこらえてどうしたらいいのか先生に聞きました。 心臓の方は、手術をするにしても出来るだけ遅い方がいいとのことで、 1年先に手術をするかどうか様子を見ていこうということになりました。

ダウン症は治らないけども、早期療育でかなりのことが出来るようになるとのことで、 「子どもの城」という療育施設があることを紹介していただきました。

ちょうどその日(1月26日)の夜は毎年恒例の中村後援会新年総会のある日でした。

遥香のこと、ダウン症のことで頭がいっぱいになりながらも、 私たち夫婦はそのことを顔に出さず、誰にもうち明けることなく最後まで後援会の人たちには笑顔で接しながら総会をやりきりました。

総会が終わると遥香のことで頭がいっぱいです。 家に帰ってからも、「なんでうちの子が・・・」そんな思いが何度もこみ上げてきて涙が止まりませんでした。

翌日長男と次男そしておばあちゃんに遥香のことを話しました。

長男の和樹、次男の信輔、おばあちゃんと夫婦。 私たちは、病院の先生から聞いた遥香のダウン症のこと心臓奇形のこと、知恵遅れの事を話しました。

みんな涙を浮かべながら聞いていました。でも子どもたちはしっかりしていました。 それまで、もしかしたら遥香は死んでしまうのではないかと心配していたので、

「でも遥香は生きてんねやろ。良かったやん」と信輔が言いました。

その言葉を聞いて妻ははっとしました。「遥香は生きている」「よかった」「しっかり育てたろ」「親がしっかりしなあかん。がんばろ。」「障害があるからといって親が泣いてたらあかん。」

2月4日はれて遥香は退院しました。

体重2840グラム、身長51.5センチ。先生から聞いた早期療育、 「子どもの城」へ早く連れていこう。そんな思いでいっぱいでした。

私たち夫婦は共稼ぎのため、上の子二人の時には、産休明けで保育所に入所させてきましたが。 遥香のために妻が1年間育児休暇を取ることにしました。

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